日本行動分析学会ニュースレター

J-ABAニューズ 1997年 冬号  No. 6

私と行動分析学の出会い

リレーエッセー

佐藤方哉(慶應義塾大学)

 人間は、無生物から生物が生じてきたように、生物から新たに生じるナニモ ノカへの中間的な存在なのではないか。もう半世紀ほども昔のことであるが、 中学、高校時代の私は、こんなとりとめもないことを考えていた。そんなこと から、人間と他の動物とはどこが同じでどこが違うのだろうかということに大 きな関心があった(この関心は現在に至るまでますます深まりつつ続いている)。 心理学を学ぼうとした大きな動機はここにあったように思う。

 学部3年の実験の時間に目撃したスキナー箱のなかでのハトの弁別行動は、 私にとって大きな驚きであった。条件反射については、小学生の頃からパブロ フの直弟子の林髞先生--私の叔父が慶應の医学部で同級生だったというご縁も ある林先生には、その後、大学院時代に大脳生理学を受講するようになって以 後、亡くなられるまで可愛がって頂いた--の『私達のからだ』や『生理学なぜ、 なぜならば』などを愛読していたこともあって、ある程度の知識があったのだ が、オペラント条件づけについてはそれまでほとんど知らなかったのである。 私はすぐにハトのオペラント条件づけを卒業実験に選ぼうと決心した。これが ある意味では行動分析学との出会いであったといえよう。

 当時(1955年頃)の日本でスキナー箱がある研究室といえば、私が学んでい た慶應義塾大学以外では東京大学のみであった。私の恩師である小川隆助教授 (当時、現名誉教授)が、ハーバード大学からおくられたハト用スキナー箱に よって慶應に動物心理学実験室を開かれたのは1952年のことであった。ハーバー ド大学からは同時にラット用スキナー箱が東京大学におくられたのである。

 卒業論文としてハトの実験をすることになった私に、小川先生がまず最初に 読むようにと示された論文は、Ferster の The use of the free operant in the analysis of behavior. (1953) と SkinnerのAre the theories of learning necessary? (1950) およびSome contributions of an experimental analysis of behavior to psychology as a whole. (1953) の三つであった。

 まだコピー機などというもののない時代で、図などはトレイシングペーパー で上からなぞって丹念にノートをとりながら読んだものだが、Skinnerの心理 学はそのころ主流だったHull派の心理学とはどうやら大いに趣が違うらしいこ とはおぼろげにわかったものの、今ふりかえればSkinnnerの真意などは全く解 することができなかった。小川先生でさえ、教室の内外で徹底的行動主義や単 一被験体法について語られることは皆無だったのである。小川先生はゲシュタ ルト心理学から出発された方で、知覚に大きな関心をもたれ、そこからオペラ ント条件づけにおける刺激性制御の問題に興味を向けられたものと思われる。 (私の卒業実験もハトのオペラント条件づけにおける色光刺激般化に関するも ので、この主題をめぐるハトによる実験は1976年に「オペラント条件づけにお ける刺激性制御の問題」と題する学位論文をまとめるまで断続的に継続するこ とになる。)小川先生は、心理学における方法論的基礎についても強い関心を もたれ造詣も深く、著名な1949年の「操作主義」をはじめいくつもの優れた論 文を書かれているのだが、徹底的行動主義者ではなく方法論的行動主義者であ るように私には思われる。フリー・オペラントというよりも断続試行的な手続 きと群間比較法的実験計画を用いるよう指導されたのであった。行動分析学の 真髄が全然わかっていなかったという点からは、その頃の私は、まだ行動分析 学に出会ってはいなかったというべきかもしれない。

 大学院に進学してからは、学習心理学ないし行動理論関係の書物を読み漁っ た。学部時代のさまざまな講義や、2年のときの原典講読、3年と4年の演習 の3年間にわたって読んだ Boring、Langfeld、Weld の3人によるFoudations of psychology (1948)がもたらした、心理学に対する一番の不満は、いろいろ な面白い事実や興味ある説があるものの個々がばらばらで、それらすべてを包 括する統一的な理論的枠組みが欠如しているということであった。そしてそれ らを統合できるのは行動理論であるに違いないと考えたのである。Hilgard & Marquis の Conditioning and learning. (1940) や Hilgard の Theories of learning (2nd ed.) (1956) などの教科書と平行して、原典も読まねばと、 Hull の Principles of behavior. (1943) 、Tolman の Purposive behavior in animals and men. (1932)、Guthrie の The psychology of learning (2nd ed.) (1952) などと並んで Skinner の The behavior of organisms. (1938) と Science and human behavior. (1953) を読み進めたが、何をいいたいのか 本当のところはよくわからないながらも、他のどの書よりも強く心を惹かれた のが Skinner の著作であった。何よりもスケールがとてつもなく大きく、作 家を志したということもあってか、文章も素晴らしいように思われた。そんな 1960年代のはじめに、ある出版社から百科事典のためにいくつかの項目を執筆 するよう依頼された。「行動主義」「条件づけ」等の心理学の専門用語に加え、 「愛」「あこがれ」「暗合」といった日常語の心理学的解説もするようにとの ことであった。行動理論的に日常語を分析しようとするにあたって、Hull や Tolman の理論はほとんど力を発揮しないのに対して、Skinner の Science and human behavior. は無限の宝庫であることを、このときあらためて認識し た。こんなこともあってか、その後 Verbal behavior. (1957) や Cumulative record. (1959) などの Skinner の著作のみならず、 Skinner 派の人々のも のに目を向けることが次第に多くなっていった。勉強を進めるうちに、行動分 析学こそ私が求めていた心理学を統合することができる枠組みではないかとい う予感めいたものが感じられるようになった。(現在の私は、このことを確信 している。)そうはいっても、1972年にぺりかん社から出版された『現代心理 学のエッセンス』の中の一章である「スキナーの理論」で述べられている私の 行動分析学についての理解は、読み返してみるまでもなくまことに浅薄なもの であった。徹底的行動主義に言及さえしていないのである。

 徹底的行動主義は、行動分析学の哲学的基礎であり、この理解なくして行動 分析学の真の理解はありえない。私が徹底的行動主義をまがりなりにも理解す るようになったのはいつ頃からのことなのであろうか。私の1960年代の終りに 書いた文章のなかに「......われわれは方法論的行動主義に立っているのであっ て、決して意識を否定しているのではなく、......(異常行動研究会編『行動 異常ハンドブック(1969)』p.9.)」という一句がみられ、一方、1973年に書い た文章には「行動の科学の哲学的背景と申しますと、公的出来事のみを科学の 対象とするという方法論的立場のことでございましょうか。/スキナー いや、 それはちがいます。あなたばかりでなく、多くの人が誤解していますが、行動 主義はけっして私的出来事を否定しませんし対象外にも置きません。..... (拙著『行動理論への招待(1976)』p.131.)」という架空対話があることから、 私が徹底的行動主義に真剣に取り組みはじめたのは1970年以後のことであるよ うに思われる。

 今でもはっきりと思いだすのは、翌年の3月から一年間、慶應が海外留学を させてくれることが決まった1973年のこと。私は Skinner 先生に「先生のと ころに1年間留学したいのですが」と手紙を出した。先生からはすぐに、「ぜ ひ受け入れたいけれども、自分は来年引退するので残念ながら無理である。ア メリカに来て何をしたいのか。知らせてくれればしかるべき助言ができると思 う」という返事が届いた。私は「日本にいてもオペラント条件づけの実験はで きるので、アメリカでやりたいのは、先生の心理学の哲学的基礎を学ぶことと、 オペラント条件づけがどのように実際に応用されているかを知ることの二つで す」と書き送った。今にして思えばどうしてこんな生意気なことを書いたのか 恥ずかしいかぎりであるが、率直な気持であった。先生からはまたすぐに返事 があり、そこには「哲学的背景は日本でも勉強できるでしょう。オペラント条 件づけの応用を知りたいのならばカンサス大学とメリーランド大学を薦めます」 と書かれていた。それまで私は無知であったが、カンサス大学は Baer 教授を はじめとする多数の行動分析家が集う応用行動分析のメッカであり、メリーラ ンド大学は行動薬理学がさかんでその中心は Skinner 先生の愛弟子の一人 Gollub 教授なのであった。

 私は、この1974年のはじめての海外への旅立ちによって、ようやくにして本 当に行動分析学に出会うことができたように思うのであるが、それについて詳 しく語りたくとも、すでに与えられた紙幅はつきようとしている。

 学部を卒業して今年でちょうど40年。あと余すところ一年で慶應の定年を向 かえる年齢とはいえ、まだ過去を懐かしみ感慨に耽るほど老いてはいないつも りである。1974年以後今日に至るまで、1979年の Skinner 先生ご夫妻の来日、 1979年以来毎年参加してきたABAの年次大会、そこで縁故を得た多数の海外の 友人達、研究会から学会へと発展してきた日本行動分析学会の思い出と、私と 行動分析学とのかかわりについて語るべきことは多いが、今はここで一先ず筆 をおくこととしよう。(1996/03/11)


一先ず筆をおかれてしまいました。何だか、これからおもしろくなりそうなの ですが.... 個人的には佐藤先生には言語や文化、メディアや社会現象につい て、いろいろ書いてもらいたいものが他にあるので、今はこれで我慢しておき ます(編)。

ニュース:日本行動分析学会のホームページ開設される

とにかく話題のインターネットですが、行動分析学会のホームページが試験 的にではありますが、開設のはこびとなりました。放送教育開発センターの望 月要さんのお力を得て、2月からスタートしています。アドレスは

で、などが閲覧できます。将来はこのホームページでjABAニューズも公開 し、さらには行動分析学の日本語の文献データベースの作成や、行動分析学に ついて討論するメーリングリストの設置も考えています。人手がかかる作業で すので協力者が必要です。我こそと思う人は望月氏までご連絡下さい (moc@nime.ac.jp)。

「時計じかけのオレンジ」:近未来社会の暗部を予言する

シリーズ:jABAシアター −行動分析的視点で映画をみると−

伊藤正人(大阪市立大学)


 ここ数年、教養教育の改革の波が我が大学にも波及し、かっての教養の心理 学も制度上の改革に止まらず、講義内容にも様々な工夫が求められるようにな りました。工夫と言っても画期的なやり方は、直ぐには思いつかないので、題 材に少し工夫をこらすことを考えてみました。つまり、論文のデータの紹介ば かりではなく、恐らく多くの学生達が見聞きしていると思われる文芸作品や映 画を題材として取りあげて見ようと思い立ったのです。JEABには、かなり前か ら、「引用(quotation)」として、様々な文芸作品や雑誌の記事などから、 行動分析的(心理学的)概念に関連する記述を取り出して掲載するコラムがあ りました(今でもあります)。勿論、これらも題材として利用していますが、 同じようなことが映画についてもできるのではないかと思い、あれこれと探し てみたところ、ありました!それを、これから紹介してみようと思います。ま ずは、「時計じかけのオレンジ」から始め、いや見てみましょう。

 「こんな汚い世界に未練はない。若者が老人をいびる世界には!」と路上生 活者の老人が倒れながら叫ぶ。主人公アレックスを含む4人の不良少年が路上 生活者の老人を暴行する冒頭のシーンである。

 スタンリー・キューブリック監督が未来を描いた二部作のうちの一つである 1971年に作られたこの映画「時計じかけのオレンジ」は、未来社会が決してバ ラ色のユートピアでないことを暗示している。もう一つの作品、「2001年宇宙 の旅」(1968年)でも、人類進化の証である道具の発明の行く末に、想像を絶す る困難が待ち受けていることを暗示している。「時計じかけのオレンジ」では、 未来社会、つまり英国は、社会主義国家となっており、若者達が、ロシア語ま じりのスラング(今風にいうとチョベリバ語)をしゃべり、暴力、性や薬物が 支配する荒んだ社会が描かれる。

 アレックスの一人称で語られる物語は、このような背景をもって進行する。 ある日、彼らは作家夫妻の家に椿入し、乱暴狼藉の限りを尽くす。このため、 この作家は車椅子生活を余儀なくされてしまう。こうした窃盗、レイプ、喧嘩 に明け暮れる生活のなかで、とうとう彼は、殺人を犯し、逃げる途中で仲間に 裏切られ、逮捕され、刑務所に送られてしまう。刑務所の生活は、単調で、表 面上は、熱心に聖書の勉強をしたり、真面目に牧師の手伝いをしている(囚人 用讃美歌の唱和を指導し、「我は迷える子羊。囲いを愛せなかった。管理され るのがいやだった。」と歌うのである。)が、暴力的傾向が消えたわけではな く、聖書の勉強中にもキリストの受難のくだりで、キリストをむち打つ、ロー マ軍の軍装をした自分を夢想してしまうのである。そんなある日、悪人を善人 に変えるという新しい療法の話を耳にして、被験者となることを申し出る。こ の新療法、ルドビコ式療法とは、パブロフ型条件づけにより、暴力的場面と身 体的不快状態(嘔吐)を連合させることで、アレックスの暴力的傾向を抑える ものとして描かれている。しかし、意図せずに、暴力的場面の映像の背景音楽 として流れていたベートーベンの第9交響曲の第4楽章のメロディーにも条件 づけされてしまったのである。これは、複合刺激の条件づけの問題であり、二 つの刺激、映像と背景音楽に同じ程度に条件づけできるか否かは、それぞれの 刺激の目立ち易さによる。ここでは、同じ程度に条件づけされたことになって いる。ベートーベンのこのメロディーは、アレックスがこよなく愛していたも のであった。ここに、この映画の核心があり、ここからこの物語は急展開を始 めるのである。

 条件づけが成功した彼は、晴れ晴れとした気分で出所し、社会にもどるが、 自分の家にも居場所がないことに気づく。茫然自失して、町をさまよっている と、かって暴行を働いた路上生活者の老人に見つかり、殴る蹴るの仕返しを受 けてしまう。かけつけた二人の警官に助けられた彼だったが、ふと顔をみると、 その警察官達は、かっての不良仲間だった。再び警官の暴行から必死の思いで 逃げ出し、彼が助けを求めたその家は、どこかに見覚えがあると思ったら、そ れもそのはず、かって自分が暴行を働いた作家の家だったのである。このくだ りは、前半部と同じ場面が主客逆転して再現され、劇的な効果をあげている。 同じ場面の繰り返しは、このような効果を演出する映画の作法の一つなのであ る。話を物語に戻すと、車椅子生活の作家は、最初はアレックスに気づかなかっ たが、すっかりリラックスしたアレックスが浴室で口ずさむ「雨にうたえば」 のメロディーを聞いて、この状況を十分すぎるほど理解した。このメロディー は、かってアレックスが作家夫妻を暴行した時に口ずさんでいたものだったか らである。物語は、いよいよ結末に向けて最後の場面を迎える。アレックスは、 条件づけされた状況を聞き出した作家から徹底的な復讐を受ける。階下の部屋 から、ベートーベンの例の音楽を大音響でアレックスの部屋へむけ流したので ある。苦痛に耐えきれずに、アレックスは、2階の窓から飛び降り、自殺をは かった。幸い一命をとりとめ、条件づけられたものも壊れ(絵画ーフラストレー ションテストにより確かめられる)、もとの暴力的なアレックスに戻ったとこ ろで、この物語は終わる。

 「2001年宇宙の旅」が近未来社会のテクノロジーと人間の関係を宇宙空間の オデッセイ(旅)として語ったものとすれば、「時計じかけのオレンジ」は、 同じ問題を地球上の日常空間で語ったものといえよう。後者の主題は、人間を 作り替えるテクノロジーの非人間性ということのように思われるが、しかし、 非人間性というのは、パブロフ型条件づけというテクノロジーそれ自体にある のではなく、テクノロジーの使われ方にあるのである。この映画で、アレック スの表現を借りていえば、凡庸でだめな牧師が、至極まともで輝いてみえる場 面がある。牧師が「選ぶことの出来ないものは、真の人間とはいえぬ」と、刑 務所という選択の余地のない状況で、アレックスに新療法を適用することに反 対する場面である。キューブリック監督のメッセージは、この牧師の言葉に代 弁されているといえるであろう。時計じかけのオレンジとは、外見は健常だが、 中身は機械じかけの廃人(人形)という意味である。映画の結末では、アレッ クスは、一度は真の人間に戻ったのである。しかし、政治的な道具として再び 時計じかけのオレンジとなりうる危うさを暗示しているように思える。

 スキナーは、1976年に慶応で開催された日本心理学会大会で、「罰なき社会 (The non-punitive society)」と題する印象深い講演を行った(行動分析学 研究第5巻に掲載)。この講演で、彼は、飢餓、病気、過酷な労働という人類 が直面した苦難を農業、医学、工学というテクノロジーにより克服してきたこ とを指摘し、現在、人類が直面している第4の苦難、すなわち、人が人を傷つ ける、いじめ、テロリズムや戦争などの暴力の問題の解決に行動のテクノロジー、 特に、正の強化子を用いた行動修正の適用可能性を、教育、工業、刑務所など の場面で例示したのである。この講演のなかで、スキナーは、「時計じかけの オレンジ」にも言及して、この映画のなかで用いられたパブロフ型条件づけは、 嫌悪的であり、一種の科学の名を借りた罰であるといっている。つまり、暴力 の問題を罰によって解決することはできず、むしろ、正の強化を基礎とした、 いくつかの選択が可能な場面を設けることで、より適切な問題の解決が得られ ることを指摘している。選択可能性は、行動分析にとっても重要な視点であり、 映画「時計じかけのオレンジ」に込められたキューブリック監督のメッセージ と一致するものといえよう。このことは、選択行動研究の重要性を示唆してい る。

 「罰なき社会」は、行動のテクノロジーにもとづく一種のユートピア論とも みることができる。ユートピア論は、プラトン以来、様々な形で語られてきた 人類の夢といえるが、現実にユートピア実現のための試みも様々に行われてき た。近代的ユートピア論とその実践は、例えば、エンゲルスの「空想より科学 へ」にみられるように、(社会)科学的知識にもとづいている。スキナーの 「ウオルデン・トウー」もこの系譜に属するものであろう。しかし、周知のよ うに、社会主義国家建設というユートピア実現のための20世紀最大にして最後 の実験は、ソビエト連邦の崩壊という形で失敗した。また、1970年代以降は、 いわば「神々への回帰」、すなわち宗教的ユートピア論が目立つようになって きているが、その一部は、宗教的カルトとして深刻な問題(事件)を引き起こ してもいる。こうした集団の問題だけではなく、今や、過密化した都市では、 冒頭のシーンが現実のものとなり、イスのない貨車型通勤電車が走り、駅のホー ムでもベンチの替わりに寄り掛かれるだけのバーが置かれるという非人間的状 況が進行している。我々は、いま、ユートピア論に懐疑的な状況に立たされて いるといえるであろう。

 映画「時計じかけのオレンジ」の暗示は、まさにこのような現在の社会状況 を予言していたのである。


学会で「選択行動」について発表しているときとはひと味違う伊藤先生のエッ セイです。いかがでしたか?この後、何回か連載していただく予定です。皆さ んもこの映画を分析して欲しいというリクエストがございましたら、行動分析 学会のヨドナガ(?)こと伊藤先生までお知らせ下さい(編)。

筑波大学心身障害学系行動情緒障害研究室(小林研究室)

研究室&研究会紹介シリーズ 第4弾

野呂文行(筑波大学心身障害学系)


 「わっ、ゴチャゴチャした研究室だなー」「おじさんが多いなー」・・・と いうのが私が学類3年生(筑波大学では学部生のことを学類生と呼ぶ)のとき の小林研究室の最初の印象でした。それから11年、いまではすっかりおじさ んの仲間入りをしてしまい研究室を汚す元凶となっている私、野呂が小林研究 室(通称コバ研)の紹介をさせていただきます。

 まず、コバ研の主である小林重雄先生を紹介します。小林先生は、みなさん もご存じの通り、本学会の前理事長であります。小林先生は、いまでこそ知的 障害児・者に対する行動療法の大家ですが、学生時代は実験心理学を専攻して いて、ネズミの実験を行っていたそうです。そこまでいうと「動物実験 →  行動療法」という安易な連想をしてしまいますが、最初に臨床を志したときは、 精神分析的な立場をとっていたというからびっくりです。それではなぜ、行動 療法への道を歩みだしたのでしょうか。小林先生によるとアメリカへカウンセ リングの勉強のために留学したときに、英語で苦労されたそうです(自分が英 語でカウンセリングしている場面をちょっと想像してみて下さい。大変さがわ かりますよね)。そんなときに、発語の乏しい自閉症と出会い、(ことばを介 さずに)行動に直接的に働きかける行動療法に接して大いに強化されたそうで す(『英語からの逃避』だったのかもしれません)。このように「精神分析か ら行動療法へ」と臨床的な立場を変えた訳ですが、随伴性に素直に従うこの柔 軟性こそが小林先生のすばらしさです。学生の研究に対しても最初から否定は しません。たとえそれが行動療法の道から外れていてもです。その結果、いろ いろな研究を行う学生が出てきます。しかし研究結果に対しては、小林先生の みならず、研究室全体で様々なフィードバックを返します(もちろん罰刺激が 提示されることも多々あります)。そのフィードバックがまたその学生の研究 を押し進めることになります。随伴性を大切にするフリーオペラントな研究指 導が、多様な人材を育てる一因となっていると私は思います。

 また、小林先生のソフトボール好きは有名です。研究室の行事(例えば、春 期・夏期研究会など)には必ずソフトボールの試合が行われます。そして、研 究会とソフトボールのどちらがメインであるかよくわからないこともたびたび あります。先生によると、多動な子どもを扱うときの「読み」と「反射神経」 は、ソフトボールで鍛えられるそうです(実証的データが存在しないため真実 かどうかは不明です)。でも、大人数の研究室において、分散しがちな学生を まとめるのにソフトボールが役立っているというのは事実だと思います。

 こんな小林先生の元には現在、助手が2名、技官が1名、博士課程の学生が 4名、修士課程の学生9名、学類4年生が1名、その他研究生が3名の合計22 名が生活しています。大学院生の数が多いと思われるかもしれませんが、もっ とも多いときには博士課程の学生が10名も所属していました。こんなにたくさ んの人数が集まるのは、小林先生の魅力によるのでしょうが、研究室の一員に 加わるのも決して楽ではなりません。小林研究室は、障害児臨床の研究室であ ります。そして、障害児を対象とした臨床研究を行うためには、まず障害児を 思い通りに扱えなければどうにもなりせん。そこで、研究室へ入るためにはま ず「ヨウクン」の関門をくぐりぬける必要があります。「ヨウクン」とは、養 護・訓練実習という授業の俗称で、女子学生の涙がられる数少ない授業のひと つです。この授業では、博士課程の大学院生をリーダーとして、数名のグルー プで1名のお子さんを1年間指導していきます。指導は1週間で1時間、金曜 日の午後に行います。しかしその1時間を乗り切るために、指導担当者は指導 プログラムに頭を悩まし、グループミーティングを幾度となく重ねるなどして 多くの時間を費やします。小林研究室に属するもので、木曜日の夜の不眠とフ ライデー・ブルーを経験したことのない人はひとりとしていません。

 指導のあと小林先生と杉山雅彦助教授を交えてケース・カンファレンスが行 われますが、その時の先生たちのコメントには正の強化として機能するものは 存在しません。担当者は、自分の担当した指導時間において「子どもの行動」 と「自分自身の行動」のすべてを行動的に説明することが求められます。子ど もが机の上で書字の練習をしている場合でも子どもの全身に注意を払っている 必要があります。うっかり机の上だけに目を落としていると、「子どもの足首 をどうなっていたか?」「それは何を意味しているのか?」という質問には答 えられなくなります。誰もが最初はパニックになります。そしてパニックに陥っ た指導担当者を支えるセッション・リーダー(大学院生)の苦労も並大抵のも のではありません。実は本当に泣いているのは大学院生で、金曜日の夜の「や け酒」を経験していない院生もまた存在しないのです。

 小林先生は臨床を学ぶ過程を「修行」と呼びます。隠し技つきのモデル提示 はあるが、具体的な教示はありません。フィードバックとしては主として罰手 続きを用います。臨床テクニックを学ぶためには、目を皿のようにして先生の ビデオを見て、自ら実践し、そして素直に随伴性にさらされるしかありません。 このような精神修行的な教示手続きは時代遅れで非効率的だという意見もあり ます。しかし、最近、自分の力だけで臨床の場に立つ機会が多くなって強く感 じることは、臨床上のミスは、殴られて済むような甘いものではなく、一歩間 違えると取り返しがつかないことになるということです(ちなみに現在は学生 に対して体罰は使われていません)。緊張感のない臨床ほど危険なものはあり ません。また、そのような修羅場に立たされたとき、自分の腕に相当自信をも たなくては乗り越えられません。ヨウクンでの緊張感や臨床技術の習得を修行 と称している小林先生の深い意図はこんなところにあるのかもしれません(あ くまで私の推測です)。

 こうして臨床を学んだ学生たちは、研究活動にも参加していきます。先程も 述べたように、小林研究室の研究活動は、小林先生の先行刺激による操作が少 ない分、多種多様です。対象としては発達障害児だけではなく、不登校生徒な どの適応障害を扱っている人たちもいます。また、実験室のブースで弁別学習 の実験を行っている人もいれば、作業所や学校などの教育・福祉の現場に出か けて行ってデータを収集している人もいます。最近の傾向として、大学のセッ ションルームだけでデータを収集するのではなく、学校や作業所、あるいは家 庭まで出向いていってデータを収集するケースが多くなってきています。例え ば、今年の修士論文の中の「学校場面で友達による遊びの選択機会の提供が、 障害のもつ児童の社会的相互作用に与える影響」あるいは「作業所内での問題 行動に対して、機能分析に基づく非嫌悪的介入手続きの導入」などの研究がそ の代表例といえます。ただし、まだまだ方法論(研究方法はもちろん研究フィー ルドの開拓方法など)の蓄積がなく、満足なデータも取れずに討ち死にする場 合もあります。しかしこの流れは確実に広がっているといえます。また、自閉 症の問題については、発達心理学の領域で唱えられている「心の理論障害説 (他者の心を理解する能力の障害という形での自閉症状の説明)」に対して、 その根拠となっている実験を行動分析的手法を用いて再現実験することなども 研究室での新しい流れといえます。そして、助手や技官、あるいは博士課程の 学生はそれぞれ異なる研究テーマをもっており、そういう中でのディスカッショ ンを通じて、いろいろなアイデアも生まれてきたりするのです。これも学生の 研究領域を狭くしない小林先生の研究指導の副産物だと思います。

 障害をもつ人に関する研究は、その対象を地域社会や学校などの公共機関へ と広げてきています。大学院生もどんどん地域に出ていって研究活動をしてい ます。そして一大学院生の研究発表に100名近くの教員や施設職員が耳を傾け てくれる貴重な機会もあります(小林研究室の夏期研究会は120名前後の参加 者がいます)。これも小林先生というしっかりとした後ろ盾があるからでしょ う。このような恵まれた研究環境にいる者として、もっともっと研究成果を上 げなければならない責任を強く感じている今日このごろです。もし小林研究室 に興味をもたれた方がいらっしゃたら、いつでもいらしてください。そのとき は運動靴を忘れずに。


お知らせ: ケラースクール主催

学校教育における科学に関するカンファレンス

F.S.ケラー博士にちなんでコロンビア大学と提携してうまれたケラースクール が創設10周年を記念して大会を開きます。学校教育をいかに科学的に進めるか を具体的な研究例や実践例を中心に考える研究会です。ビジュー(ネバダ大学)、 マロット(ウエスタンミシガン大学)、ヒューワード(オハイオ州立大学)、 グリア(コロンビア大学)、グレン(ノーステキサス大学)、ジョンソン&ラ ング(モーニングサイドアカデミィ/マルコムXカリッジ)と、この分野では 先端の研究者のキーノートが続きます。ちょうどゴールデンウィークで休みや すいときでもありますし、この機会にNYへ遊びに行くのも悪くないのでは?

お知らせ ABA:国際行動分析学会

 今年もABAは独立記念日の週にやってきます。年に一度のお祭り騒ぎは風 の街シカゴで開かれます。「いつか行こう」と思って先延ばししてきたあなた、 今年はぜひ参加しましょう!


FKSコンファレンスもABAもjABA編集局までご連絡下さればファックスでパンフレットをお送りいたします。

目撃証言の行動分析学的な解釈

島宗 理(鳴門教育大学)

 法廷ドラマが好きだ。特に、L.A. Law(日本でも一時「LAの7人の弁護士」 として深夜に放映していた)は、今でもビデオテープに数十本のエピソードを 撮ってあり、暇があれば観ているほどだ。陪審員制度のせいもあるかもしれな いがアメリカの法廷ドラマは面白い。日本の法廷ドラマは人情がからむか、あ るいは、「女弁護士霧島かよこの冒険」みたいな犯人探しのサスペンスになり がちだし、何よりロジックがない。L.A. Lawを観ていると原告側と弁護側の行 きも尽かせぬやりとりがまるで(質の高い)論文審査のようである。それは、 いかに自分に有利な証言を引き出し、相手側の証言の信憑性をなくすか、しか もそれを決められたルール内で行うという、たいへん知的なゲームである。論 点も白黒のつかないものが多い。たとえば、不治の病にむしばまれた余命数カ 月の患者が未来の医学の発展に期待して冷凍保存されることを希望する。検察 側はこれを自殺を補助する行為とみなし、裁判所に中止の命令を出すよう要請 する。弁護側(この場合、冷凍保存サービスを提供する会社)は自らの行為を 患者の生きる権利を守るものだと主張する。。。などなど。

 一時期、日本でもTBSがウッチャン・ナンチャンを登用し、バラエティ枠 ではあるが法廷ゲームに挑んだことがあった。現役の弁護士なども起用してい ていたので期待を持って観た。残念ながら結局は、知的なゲームには程遠い、 痴的なお笑いとなってしまっていた。でも、アイディアはいいのだから、薬害 とか、破防法とか、厚生省の汚職とかを、現実の裁判進行が遅いぶん、テレビ で疑似法廷みたいにして問題にすれば面白いと思うのだが。

 前置きが長くなってしまった。本題は『目撃証言』に関する研究である。前 号で佐藤氏が提起したように(佐藤, 1996)、主に認知心理学者の間で一世を 風靡し、今なお精力的に研究が進められているトピックの1つである。佐藤氏 が指摘するように、えん罪の問題1つをとっても、これが人道的に重要なテー マであることがわかる。社会的に重要な問題の解決を重視する応用行動分析学 にとっても、また、基礎的な行動研究を行う実験的行動分析学にとっても、取 り組みがいのあるトピックであるはずだ。そこで今回は、まず、目撃証言の代 表的な研究を紹介し、それを行動分析学の枠組みから解釈してみたい。

 目撃証言の研究はロフタスという心理学者を中心に70年代後半から行われて きた。昨年は日本心理学会のJapanese Psychological Researchと日本認知科 学会の「認知科学」で特集が組まれているので、詳しくはそちらも参考にして いただきたい。基本的に、実験は、目撃場面、誘導場面、証言場面の順に進め られる。ある事件を目撃した人が、その後、尋問などを受けることで記憶が変 容し、証言に影響を及ぼすという現象のシミュレーションになっているのだ。 たとえば、Loftus & Palmer(1974)では、最初、被験者に自動車事故の映画 を見せる(目撃場面)。次に、一群の被験者には「自動車どうしが激突した (smashed)したときに、車はだいたいどのくらいのスピードで走っていまし たか?」と質問する。一方、もう一群の被験者には、同様の質問だが「激突し た」の代わりに「ぶつかった」(hit)という言葉を使って質問する。これが 目撃直後の尋問にあたる(誘導場面)。実験1では質問に使った言葉によって 被験者の推定するスピードに差があることが示された(「激突した」の方が 「ぶつかった」より速い)。実験2では、映画を見せてから同様の質問をした 1週間後に、今度は「映画の中で割れたガラスを見ましたか」ときく。映画で はガラスは割れていないところがミソである。結果は、「激突した」で質問さ れた被験者は「ぶつかった」で質問された被験者に比べて「割れたガラスを見 た」と証言しやすいというものだった。ちなみに、この実験の直接の追試は日 本では行われていないようなので、上述の日本語訳で同様の効果が得られるか どうかは不明である(どなたかやってみたらいかがだろうか?)。

 この現象は「誤情報効果」とも呼ばれ、新しい情報が記憶を変容させるため であると考えられている。そのプロセスに関してはいくつかのモデルが提唱さ れ、検討されているが、ここでは深入りしない。いずれにしても、目撃場面で 記憶された情報が誘導場面の質問によって変容するために、証言場面での再生/ 再認の正確さが低下すると考えるわけである。

 記憶の変容と理解されているこの現象を、行動分析学ではどのように解釈で きるだろうか?

 大前提として、行動分析学の枠組みから『記憶』を取り上げるさいには、貯 蔵とか検索といったコンピュータのアナロジーは使わない。あくまでも、問題 となる行動の頻度に影響を及ぼしている変数を見つけることに専念する。この 場合、問題となるのは、「ガラスが割れていましたか?」という質問に対して 「はい」と答える行動である。

 窓ガラスが割れている現場の写真を目の前にして「ガラスが割れていますか?」 と質問する。それに対して「はい」と答えるのは、一種のタクトであり、通常 のオペラントとして考えられる。その写真を見て、顔を上げ、写真から目を離 した状態で「ガラスが割れている」というのもタクトであると考えていいだろ う。見本合わせ課題になぞえれば、前者は同時見本合わせ、後者は遅延後見本 合わせ(ただし遅延は0秒に限りなく近い)にあたるだろう。さらに、遅延時 間が延びても数十秒のうちなら反応は可能である。ハトやラットなど、動物を 被験体に使った実験でも、弁別刺激を引っ込めてから数秒から数十秒の間なら、 それに対する反応を強化できることがわかっている。

 ところがこの数十秒の限界を超えると刺激は行動を制御しない。これは人間 の場合も同様である。リハーサルなしで電話番号や無意味綴りを覚える、いわ ゆる「短期記憶」の実験は、弁別刺激提示後、反応の機会を遅延して、どれく らいまでなら刺激が行動を制御するかを検討しているのだと解釈することもで きる。

 これに対して、いわゆる「長期記憶」の実験では遅延時間がずっと長くなっ てくる。目撃証言の実験でも、被験者は事故の映画をみてから1週間後に「ガ ラスが割れていましたか?」という質問に答えなくてはならない。しかも、被 験者には予めこのようなテストがあることを知らせていない。したがって、当 然ながら、証言場面では、現場の様子が弁別刺激として存在しない。認知心理 学者なら、過去の記憶や貯蔵された表象を弁別刺激にして反応するのだと言え るかもしれないが、徹底的行動主義者にとっては、それは『記憶』という説明 概念を使った循環論的解釈にすぎない。

 スキナーがかつてハトを使った誘導ミサイルの開発に関与していたことは有 名だが(Skinner, 1960)、この論文には次のような一節がある。スキナーは ハトが画面上の標的をつついて追っていく反応をエサで強化することに成功し ていた。ハトにミサイルを操縦させようとしたわけである。ところが軍の評判 が良くなかったため、研究は一時期とん挫してしまう。しかし、6年後、軍の 意向が変わり研究は再開された。この時、かつて訓練したハトを実験箱へ戻し たら、ハトは以前と同様に正確に標的をつつき始めたという。ハトはキーつつ きを「記憶」していたのだろうか?

 行動分析学から考えれば、このハトの行動は「短期記憶」にも「長期記憶」 にもあたらない。なぜなら6年後、実験箱に連れ戻されたハトの前には6年前 と全く同一の弁別刺激が提示されているからである。いうなれば、割れたガラ スの写真に対して「ガラスが割れている」とタクトできるようになるまで強化 した後、その写真を見せずにおき、後で同じ写真を見せてガラスが割れている かどうか聞くようなものである。つまりこれは、いったん強化によって確立し た刺激制御が、反応の機会を与えなかった場合には、どれくらい保持されるか ということを検討した研究なのだ。ちなみにスキナーの答えは「ずっと」であ り、これはその後の多くの記憶研究の結果と一致するものである。つまり、忘 却は単純な時間経過による減衰ではなく、他の刺激や行動との干渉によって起 こる。

 いわゆる「長期記憶」の実験を再検討すると、記銘時には存在した弁別刺激 が再生時にはないことがこれらの課題の特徴になっているとわかる。しかし、 「短期記憶」の研究から示されるように、刺激は提示終了後、ほんの数十秒し か我々の行動をコントロールしない。それにもかかわらず我々はかなり昔の、 それも覚える気もなかったことを思い出せる。なぜだろうか?やはり、『記憶』 が貯蔵されていると考えざるを得ないのだろうか?

 Learning and Complex Behavior という行動分析学の教科書(Donahoe & Palmer, 1994)では、こうした「長期記憶」の課題を問題解決の1つとして捉 えている。問題解決場面とは、解決行動はすでにレパートリーにあって確立操 作が作用しているのにもかかわらず、適切な弁別刺激がないか、あるいは妨害 する刺激があって、それが自発されない場面をさす。たとえば、「234 × 15 = ? 」という問題は、そのまま直接には弁別刺激として正答を引き起こさない。 そこで、紙に問題を書いて計算するという行動を引き起こす。そして最終的に 「3510」という、行動レパートリーにはそもそも存在した解決行動が自発され る。問題を書き移したり、1桁どうしを掛けたり、繰り上がりをメモしたりす る一連の行動が問題解決行動、つまり弁別刺激を作りだす行動である。

 目撃証言の場合もこれと同様に考えることができる。「ガラスが割れている (あるいは、割れていない)」というのはすでにレパートリーにあるタクトで ある。ところが、この反応を引きだす弁別刺激(現場の様子)はない。そこで、 目撃者はたとえば、目をつぶってその時の映像を思い浮かべようとする。「ど んなクルマだったっけ?」「スポーツカーだったよな」というようなイントラ バーバルによる自問自答も行われるだろう。実際に信号でクルマが停車してい る様子が浮かぶかもしれない。誘導尋問はこうした一連の問題解決行動に影響 するであろう。たとえば、「あぁ、クルマが激突したときだよなぁ」と考える 被験者は「ぶつかったときだよなぁ」と考える被験者よりも、「けっこう早い スピードでぶつかってたな」と連想する可能性が高く、したがって「ガラスが 割れたはず」と反応する可能性も高くなるだろう。要するに、誘導尋問が影響 を及ぼしているのは、頭の中のどこかにある『記憶』ではなく、現場の状況を 思いだそうとするときの問題解決行動なのである。

 ちなみに、Donahoe と Palmer の分析には、条件性知覚(conditioned perception)という概念が重要な役割を果たしている。条件性知覚とは見えた り、聞こえたり、匂ったりという知覚反応が、無条件刺激と中性刺激の対提示 によって、レスポンデント条件づけのように条件づけられることであり、スキ ナーもVerbal Behavior のなかでしばしば使っていた概念である。残念ながら 実証的研究はほとんど行われていないが、日常的には我々がよく経験すること である。たとえば、最近自分はMr. Childrenをカラオケでパーフェクトに歌う ことに執念を燃やしているため、通勤時間は必ず彼等のCDを聴いて歌っている (そのため対向車に笑いをかうことが多い)。もう半年もそんな調子なので、 1曲が終わると次の曲のイントロが聞こえてくるほどだ。つまり、イノセント ワールドのイントロ(無条件刺激)はイノセントワールドのイントロを聴くと いう反応(無条件反応)を誘発するが、その前のラヴコネクションという曲の エンディングと空白(中性刺激)がイントロと対提示されることにより条件刺 激となり、まだ曲が始まる前からイントロが聞こえるという条件反応を誘発す るようになる。だから、事故の映画の中で信号機の下に見えていたクルマは信 号機が思い浮かべられればそれにつれて思い浮かぶ可能性がある。あるいはリ アガラスに貼ってあった「赤ちゃんがのってます」ステッカーなども条件反応 として「見える」かもしれない。こうした条件性知覚が「長期記憶」課題にお ける再生/再認に重要な役割を果たしているというのがDonahoe と Palmer の 考えである。

 目撃証言が問題解決行動であるなら、その正確さ/不正確さに与える影響は 他にどんなものがあるだろうか?1つは方略的な問題である。目をつぶって妨 害刺激の影響を抑えたり、逆に積極的にヒントになるような刺激を考えていっ たりする方略は、発達とともに自然に形成されてくる行動ではあるが、それで も個人差があるかもしれない。「起源モニタリング」という方法で想起内容の 元を意識化するという実験も行われているようである。誘導場面にもいろいろ な変数が考えられるだろう。たとえば、誘導尋問に対する答えにうなずきなど の般性強化があるかないかとか、刺激のモダリティの違い(割れたガラスの写 真を見た vs「ガラスが割れていた」と聞いたなど)も影響を及ぼしそうであ る。

 さて「記憶」という現象をこのように行動分析学から解釈することにはどの ようなメリットがあるだろうか?1つには、現象ごとに異なるモデルを想定せ ずにすむという理論的な節約性があげられる。確かに、コンピュータのアナロ ジーに使ったモデルは「記憶」とか「理解」といった、限定された現象の説明 には便利かもしれない。しかし、そこに動機づけの要因がからんできたらどう だろうか?法廷での証言のケースを考えてみても、証人は「記憶」している通 りに「証言」するとは限らない。もちろん白を黒というのは偽証である。しか し「記憶にございません」という発言は、すなわち「思い出せない」ことを意 味しない。私の知る限り、このような動機づけの要因をも含んだコンピュータ モデルは存在しない。それから、そもそも見たこと聞いたことなどがそれに近 い形で(表象として)保存されるというのは工学的に考えても大脳生理学的に 考えても、資源的な節約性が低いように思われる。むしろ、あるパターンの刺 激や環境変化に対する行動の変化(あるいは処理の仕方)が刻々変容すると考 える行動分析学的モデルの方が、よっぽど現実的ではないだろうか。

 逆に、行動分析学的アプローチの欠点は、1つに、現状では実証的研究が少 なく、データがないこと。それから、研究に「面白さ」が欠けることだろう。 目撃証言に限らず、認知心理学者の取り上げるトピックは、なんだか挑戦的で、 一般受けするだけでなく、「へぇ」と思わせるものが多い。対して行動分析学 の研究は型にはまったワンパターンなものになりがちである。「面白くなきゃ 研究する価値がない」という声は、行動分析学者からはあまり聞こえてこない。 しかしこれは行動分析学という学問に内在する性質ではないと思う。おそらく 真面目な人が多いせいだろう。行動分析学にも、もう少し、時流に乗るという か、軽薄短小とののしられながらも、データで「へぇ」と思わせる研究があっ たらなと思う。






Donahoe, J. W., & Palmer, D. C.  (1994)  Learning and Complex


     Behavior. Needham Heights, MA: Allyn and Bacon.





Loftus, E. F., & Palmer, J. C.  (1974)  Reconstruction of automobile


     destruction: An example of the interaction between language and


     memory.  Journal of Verbal Learning and Verbal Behavior, 13,


     585-589.





佐藤達哉(1996)目撃証言の研究をしませんか! jABAニューズ, No.5, 7.





Skinner, B. F.  (1960)  Pigeons in a pelican.  American Psychologist,


     15, 28-37.



ウエスタン・ミシガン大学で行動分析を勉強しよう!

海外短期留学(夏休み)のご案内 その1

行動分析のメッカ、ウエスタン・ミシガン大学での単位取得留学はいかがです か? 

1994年、1995年に引き続き、3回目の実施になります。正式には大学院の履修 科目ですが、基本をマスターしている学部生、すでに教員になられている方の 参加も歓迎します。



科 目:Psychology 671(応用行動分析学)


教科書:Malott, Whaley, & Malott (1997) Elementary Principles of Behavior, 3rd ed.


担当教授:リチャード・W・マロット


開講日:1997年7月28日(月)より8月20日(水)(18セッション)週5日、午後3時から6時


費 用:渡航費は約17万円、学費・寮費は未定   申込締切:5月末日


問合/申込先:杉山尚子(電話/FAX  03-3941-5972、電子メールQWL05617@niftyserve.or.jp)


なお、6月30日から7月25日までのPsychology 610(基礎行動分析)も受講で きますので、ご希望の方はお申し出下さい。また、過去にめでたく優秀な成績 で単位を取得された本会会員は以下のとおりです。食費やお土産代、持ってい くものなど、詳しい情報がほしい方はお問い合わせしてみて下さい。[遠藤清 香(慶應義塾大学)、武藤崇(筑波大学)、野口景子(駒澤大学)、清水由紀 (駒澤大学)、高木秀人(岡山大学)、植田郁子(明星大学)、山岸直基(駒 澤大学)]


ノース・テキサス大学で行動分析を勉強しよう!

海外短期留学(夏休み)のご案内 その2

昨年に引き続き、ノース・テキサス大学でも単位取得留学を実施します。詳細 は未定ですが、行動分析を英語で学んでみたい方、基本を丁寧に復習したい方 にお薦めします。学部生歓迎。週末のお遊びプランつき。J-ABAニュース、 1996年秋号(No.5)に、昨年参加された青塚徹さん(駒沢大学)の体験記が掲 載されています。



科 目:行動分析学


担当教授:シグリッド・S。グレン


開講日:1997年7月下旬より8月中旬


費 用:渡航費は約17万円、学費・寮費は未定


問合/申込先:杉山尚子(電話/FAX  03-3941-5972、電子メール:QWL05617@niftyserve.or.jp)



編集後記

  • わー時間がない。なにしろjABAニューズは別名「小判ザメ号」と呼ばれて いて(命名はK大学のO次期会長先生)、本隊の発送につかず離れずくっつい ていかなければならない運命なのです。というわけで、今回は図案はなしの (チョッピリ)手抜きとなりました。あしからず。(ちなみに今回の「本隊」 は行動分析学研究です)

  • 今年はABAはやめてケラースクールの大会へ行くことにしました。でも ゴールデンウィークってやたら航空運賃が高いんですね。誰か一緒に行って部 屋をシェアしてお金をうかせませんか?


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